つまり日本では、ウイークデーに働き盛りの男性が住宅街にいてはならぬのが「常識」なのだ。どこにいなければならぬのかと言えば、「会社」である。ウイークデーの昼日中には働き盛りの男性は、すべからく会社で仕事をしていなければならない、これが日本の常識なのだ。
この常識が邪魔してなかなか普及しないのが「在宅勤務」である。「周りの目が気になって、昼飯を買いにも出にくいんですよ」と、週に2日ほど在宅勤務をしている男性は苦笑まじりに言ったものだ。
かつては、自宅で仕事をするとなると、資料を会社から持ち出したりしなければならないので面倒だった。セキュリティーの面からも問題が多かった。
しかし最近は、製造現場以外なら、かなりの仕事がパソコンでやれてしまう。むしろ、パソコンを使わなければできない仕事の方が多かったりする。インターネットが普及している現在、ネット環境さえ整っていれば、どこでも仕事はできるわけだ。セキュリティー技術も向上していることから、それなりの対策を取れば、会社であろうが自宅であろうが問題はない。
それでも、在宅勤務はさほど一般的な制度になっていない。
在宅勤務がパソコンを最大限に利用する勤務形態であるところから「テレワーク」とも呼ばれており、これを普及させる目的で「日本テレワーク協会」なる団体まで設立されている。
その日本テレワーク協会が発行している『テレワーク白書 2009』の調査結果によれば、テレワークを導入していない企業は68.3%に上っている。営業など外出先にパソコンを持ち歩いて業務処理をする「モバイル勤務」だけを実施している企業は18.6%、在宅勤務だけを実施している企業は4.8%、在宅勤務とモバイル勤務の両方を導入している企業は8.3%にすぎない。
この調査は上場企業3960社、売り上げ規模の大きな非上場企業1040社、計5000社を対象に行われている。いわゆる「大手」が調査対象なのだ。
テレワーク=在宅勤務にはセキュリティーを含め、それなりの環境整備が必要になるので、やはり大手の方が導入しやすい。にもかかわらず70%近くが導入していないのだ。
さらに同調査で、導入していない企業の76.8%までが「導入の予定なし」と答えている。在宅勤務について日本の企業がかなり消極的であることは、この調査だけでも分かる。
なぜ消極的なのか。
パナソニックは在宅勤務に積極的な企業の1つである。同社では在宅勤務を「e-Work」と呼び、2006年1月にe-Work推進室を置いて導入に努めている。
しかし、思った以上に普及していない。同社のホワイトカラーは3万5000人いるが、すでに7000人以上が在宅勤務を経験している。7000人という数だけ見ると多そうだが、全体の2割でしかない。
その2割も、推進室が音頭を取って「強制的」に経験させた結果だ。「今月はこの部署から何人」といった具合に指示し、それで実行させた結果である。それくらいやらないと、個人の意思で積極的にやってみようという従業員は少ない。それでも2割でしかない。
在宅勤務にメリットがないから、やりたがらないわけではない。経験してみた従業員の8割までが「効率よく仕事ができた」と答えているのだ。にもかかわらず、それ以後、在宅勤務を続けているかと言えば、大半は「1度きりの経験」で終わってしまっている。
7000人のうち大半が「1度きりの経験」でしかないのが実態なのだ。在宅勤務のメリットは感じながらも、それを引き続き利用しているのは少数派でしかない。
在宅勤務をしない理由として、「住環境」を挙げる人が多いという。書斎はあこがれの空間だが、それだけのスペースを確保できる恵まれた住環境にある人は多くない。仕事するスペースがないから在宅勤務できない、というわけだ。
しかし、パソコン1台が置けるスペースさえあれば仕事はできる。食事をするテーブルだって、仕事するには十分なのだ。役員クラスなら個室があるのだろうが、一般の従業員では社内の専用スペースといえば机1個分でしかないのだから、家の食卓の方が広いスペースを確保できるはずなのだ。
在宅勤務ができない理由を住環境とするのは、「言い訳」に過ぎないことになる。現在ではインターネット環境にない家が珍しいくらいだから、インフラも在宅勤務をやらない理由にはならない。
企業側も積極的に勧めるし、仕事の効率もいい、満員電車でもみくちゃにされることもない。考えれば「いいこと」だらけの在宅勤務なのに、なぜ多くの人が消極的なのか。
パナソニックe-Work推進室の永木浩子室長に、在宅勤務の利用が進まないことについて聞いたことがある。それに彼女は「意識の問題です。『会社で遅くまでやっていれば頑張っていると評価される、上司にもかわいがってもらえる』という先入観が強すぎるからなんです」と答えた。
日本の企業は「家族主義」と言われるほど「仲間意識」を大事にしてきた。「家族の一員である、仲間である」という意識が企業への帰属意識を高めて、従業員の能力を発揮させることができる、という考えが基本にあった。それが、ある時期に成功したことは事実だ。
家族・仲間であるためには、「働いている姿を見せる」ことが要求された。家族であり仲間であることを示すには、とりあえず視認し合うことが大事だったのだ。
そこに大きな意味があることを否定はしない。しかし、良い面ばかりではないのも事実だ。「会社に行くのが仕事」になりかねないことも、その1つである。
会社に行きさえすれば、たとえボーッとしていても「仕事している」と「錯覚」してもらえる。管理職も、部下が何の仕事をしているのか正確に把握していなくても、目の前で何やらやっている姿を見ていれば、部下を管理するという自分の仕事を果たしていると「誤解」してしまうのだ。
これでは効率が悪い。悪いが、足りない部分は誰かがカバーすることによって組織は動く。誰かがカバーすることを前提にしているのが日本的経営と言える。
こういう仕事の仕方に慣れてきたのだから、出社しないことに不安を感じるのも無理はない。「家で仕事していると、サボっているのではと思われないかと不安になる」とパナソニックの在宅勤務経験者は語った。
そんな不安を感じるくらいなら、満員電車くらいは我慢できるし、効率的でなくても狭っくるしいデスクの方がいい、となるのだ。「一緒にいること」に重きを置いてきた日本的経営が、在宅勤務普及の大きな障害になっているのだ。
さらに在宅勤務普及を阻んでいる大きな理由として、「評価制度」の整っていないことが挙げられる。
前述したように家族主義的な日本的経営の特徴は、足りない部分を誰かがカバーする「助け合い」にある。その中では、誰が何をするか、それをどう評価するか、それが曖昧なままにされている。
きっちり役割が決められ、それに対する評価の仕方も決まっていれば、責任が追及されることになる。助ける前に責任を追及するということになるのだ。それでは「和」が保たれず、家族主義的な結束力が生まれない。
だから、あやふやな役割と評価が日本では定着してしまった。それでも、みんなが集まって、組織として仕事が前に進めばよし、とされてきたのだ。仕事をした気にもなれる。
在宅勤務になると、これでは困る。やるべきことがはっきりしていないので、何をやっていいか分からない。会社にいれば感じなくても、家にいてボーッとしていれば仕事をしていないことを実感しないわけにはいかない。これでは在宅勤務する意味がない。
何をやらせるかがはっきりしていないのだから、評価するにも困ってしまう。目の前にいないので、「あいつは本当に仕事しているのか?」という考えが先に立ってしまう。これでは、誰も在宅勤務をしたがらないし、やらせたくもなくなる。だから、日本では在宅勤務がなかなか広まっていかないのだ。
やるべき仕事が明確になり、それに対する評価がはっきりしていれば、どこで仕事をしていても同じことだ。在宅勤務ももっと普及するはずである。それで、仕事の効率も上がる。ムダに群れる必要もなくなる。それには、家=会社に縛りたがり、縛られたがる意識そのものを変えていくしかない。